妙見山 法輪寺
2007年 09月 28日
法輪寺の創建には二説が伝えられています。
推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子山背大兄王がその子由義王らとともに太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)。
もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。
昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似することが判明しています。薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像の飛鳥様式の仏様二体を伝えるところからも、7世紀末頃にはかなり寺観が整っていたであろうと考えられます。(法輪寺HPより)
法隆寺ではたくさんの拝観される方がおられたがここは殆ど人がいなかった。
修学旅行生も1グループ(グループ行動なのだろう)とすれ違っただけ・・。
とっても静かで・・田圃の中にある。
<三重塔>
太平洋戦争末期の昭和19年7月21日落雷で焼失。
焼失前の塔は最大最古の三重塔として明治時代より国宝指定を受けていたが、
全焼してしまったためにその指定は解除。
<金堂>
江戸正保2年(1645)の台風で堂宇が倒壊してしまった後、三重塔が修復された宝暦10年(1760)の翌年に再建されたもの。
<講堂>
金堂と同時期に再建された江戸時代の小さな講堂を、昭和35年に耐火耐震の鉄筋コンクリートの収蔵庫として建てなおした。
ご本尊の薬師如来をはじめ七体の仏像をご安置し、出土瓦、伽藍図や塔の模型など公開している。
<鐘楼>
探したが特に明記がなかった・・。
ひっそりとした寺の片隅に・・。
斑鳩の里の北側にある。
もっと多くの人が訪れてもいいと思うがなあ~。
三重塔の風鐸の音・・聞きたかったがあまり風はなかった・・。
奈良県生駒郡斑鳩町 法輪寺
推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子山背大兄王がその子由義王らとともに太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)。
もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。
昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似することが判明しています。薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像の飛鳥様式の仏様二体を伝えるところからも、7世紀末頃にはかなり寺観が整っていたであろうと考えられます。(法輪寺HPより)
法隆寺ではたくさんの拝観される方がおられたがここは殆ど人がいなかった。
修学旅行生も1グループ(グループ行動なのだろう)とすれ違っただけ・・。
とっても静かで・・田圃の中にある。
<三重塔>
太平洋戦争末期の昭和19年7月21日落雷で焼失。
焼失前の塔は最大最古の三重塔として明治時代より国宝指定を受けていたが、
全焼してしまったためにその指定は解除。
<金堂>
江戸正保2年(1645)の台風で堂宇が倒壊してしまった後、三重塔が修復された宝暦10年(1760)の翌年に再建されたもの。
<講堂>
金堂と同時期に再建された江戸時代の小さな講堂を、昭和35年に耐火耐震の鉄筋コンクリートの収蔵庫として建てなおした。
ご本尊の薬師如来をはじめ七体の仏像をご安置し、出土瓦、伽藍図や塔の模型など公開している。
<鐘楼>
探したが特に明記がなかった・・。
ひっそりとした寺の片隅に・・。
斑鳩の里の北側にある。
もっと多くの人が訪れてもいいと思うがなあ~。
三重塔の風鐸の音・・聞きたかったがあまり風はなかった・・。
奈良県生駒郡斑鳩町 法輪寺
by kaba0714
| 2007-09-28 21:28
| お寺